1章3節347-15
褻とは、普段の日常のことを意味し、それに対して晴とは特別な非日常を意味する。たとえば褻着と晴れ着とは、日常の服装と特別な時の装いの区別を表している。第1章では、それまで染色技術の限界により使うことができなかった色、宗教的な禁忌や忌みにより使えなかった色が、近代になって染色技術の発展や宗教的な縛りが弱くなっていくことで、「解放」され使えるようになったことが説かれる。身にまとうことができるようになった色が増えもたらされた選択の自由は、一方で従来の「褻と晴」の秩序の混乱でもあった。
相似的な議論は、第2章の食生活や、第7章の酒をめぐる議論にも見ることができる。
1980年代の都市民俗学以降、民俗学で『世相篇』が語られる際、この「褻と晴の混乱」という問題は、『世相篇』のポイントとして言及されることになった。確かに、『世相篇』が語る明治大正期の生活の変容を「褻と晴の混乱」というストーリーで整理することは可能だろう。しかしそれでは、第10章や第11章等で論じられた消費と生産、労働市場の問題などをめぐる、近代における生活の構造的変容の議論に接続できず、『世相篇』は単なる生活文化史ということになりかねない。
近代そのものに十分に向き合うことなく、近現代都市生活のなかに民間伝承の残存を見ようとした当時の民俗学が『世相篇』に引いた補助線が「褻と晴の混乱」だったといえよう。[重信]